第56回日弁連人権擁護大会プレシンポジウム
弁護士 永 島 賢 也
2013/09/11
浪江町視察
当職は、福島県弁護士会主催、そして、日本弁護士連合会及び東北弁護士会共催の第56回日弁連人権擁護大会プレシンポジウムに参加してきました。以下は、その手記となります。
プレシンポジウム前日
平成25年9月6日、浪江町を視察する機会を得た。オリンピックの招致活動が盛り上がりを見せるなか、この日、日経新聞の1面トップは、ドコモがiPhoneを発売する見通し、という記事であった。
福島駅
午前11時ころ、福島駅前のコラッセひろばに設置された屋外カウンターは、放射線量として0.242マイクロシーベルト毎時(μSv/h)を示していた。
チャーターされたバスに乗り込むと、車内で計測された放射線量は0.08μSv/hであった。114号線(富岡街道)で東へ向かうにしたがい、徐々に数値は上昇し、川俣町に差し掛かるころには車内で0.21μSv/hの値を示した。これらは、いずれも主催者が用意した携帯型のガイガーカウンターによる計測値である。
川俣町
川俣町は絹(シルク)が有名であり、シャモ(軍鶏)も名物である。線量は比較的低い地区であるが、地元の食材を親戚に贈るのを躊躇するような時期もあったそうである。川俣町の道の駅付近、道路脇には仮設住宅を示す看板が見られた。このまま道なりに進むと浪江町に通ずるが、進入禁止とされているため、交差点を左折して飯舘村に入る。
再編
今回、主に通行した飯舘村の地区は居住制限区域に指定されている。居住制限区域とは、年間積算放射線量が20ミリSvを超えるおそれがある地区で、原則、住民は日中のみ出入りすることができる。そのほか、避難指示解除準備区域は、年間のそれが20ミリSv以下になることが確実とされ、宿泊は認められないなどの一部制限はあるものの立ち入りは原則自由とされている地区である。そして、帰還困難地域は5年を経過してもなお20ミリSvを下回らないおそれのある、現時点での年間のそれが50ミリSvを超える地域であり、それまでの警戒区域同様、原則立ち入り禁止とされている。もっとも、人為的な作業なしに数年の時の経過により次第に当該地区で計測される放射線量が低下していくものかどうかは明らかでない。
飯舘村
現在(平成25年9月7日時点)、この3区域(避難指示解除準備区域、居住制限区域、帰還困難地域)に再編されている。この付近の飯舘村では日中30程度の事業所が営業しているそうであるが、夜中は警察がパトロールをしているとのことである。酪農が盛んで、飯舘牛はブランド牛として有名である。しかし、福島第一原発事故により、牛を処分したうえで避難することを余儀なくさせられていた。
道の脇には、黒色のフレコンパックが積まれ、その上にブルーシートがかけられているのが見える。これは除染作業による物質を入れる袋状の容器である。バスの窓から見えていたのは仮置き場に移動する前のものであった。
山津見神社の悲劇もこの地区の出来事である。神社全焼の火災で宮司妻が帰らぬ人となった。火災が深夜であったため、住民は避難しており、周囲に誰もいなかったのである。警戒区域内の家屋に入り込む者を、警察は厳しく取り締まっているそうである。飯舘村を通過する際、バス内の放射線量は0.5μSv/hを超えていた。ふと外を見ると、電線の上に2匹の猿が仲よさそうに毛繕いをしていた。そこだけを見るとのどかなシーンであったが、水田と思われる土地に耕作の気配は見られなかった。
南相馬
阿武隈高地を越え南相馬市に入るころには、放射線量は低くなってきていた。南相馬の道の駅に設置された屋外カウンターの数値は0.149μSv/hであり、福島市内よりも低いものであった。いわゆる慰謝料額は、その地区で計測される放射線量とは比例していない。
浪江町
バス内で昼食をとり、浪江町に向けて出発し、午後2時ころ、検問を通過して浪江町役場に到着した。避難指示解除準備区域であり、昼間は自由に入ることができる。区域外に出るときにはスクリーニング(放射線量のチェック)を受けると説明された。
請戸地区
役場で副町長の渡辺文星氏と合流し、国道6号線よりも東側、つまり海側にある請戸地区の案内を受けた。請戸付近の検問は浪江町が保安目的のため独自に行っているものである。請戸地区は震災後手つかずの状態にある。雑草が生い茂っている点を除けば、震災時の姿のままであった。盛り土して作られた浜街道が津波の勢いを減衰させ、その西側の地区の被害を少なくしたと推測されている。もっとも、震災前のハザードマップは、浜街道まで逃げれば津波の被害は免れることを想定していた。避難訓練も浜街道まで逃げるというものであった。地区のお年寄りはチリ津波でも大丈夫という神話を信じていた。しかし、今回の津波は浜街道を越えた。
請戸地区には小学校があった。津波が来る直前、学内に81名の生徒がいた。教員は直ちに避難誘導を始め、ハンデを負う生徒も連れ西に逃げた。このとき教員は浜街道にはとどまらず、これを越えて丘の向こう側にある国道6号線まで退避した。この機転が生徒全員の命を救うことになる。請戸小学校の体育館には祝修・卒業証書授与の横断幕が飾られていた。1階にある教室は、ほとんどすべて流出しており、廊下と教室を隔てるものはなかった。2階は、書籍やパソコンなどが残っており、1階と比較して教室の雰囲気が残されていた。音楽室の黒板には陸上自衛隊44連隊(福島)の文字があり、その周囲に多くのメッセージと思われる書き込みが残されていた。ベランダから見える瓦礫の向こうには広大な緑が続いていた。そして、その果ての木々の間に福島第一原発の姿が垣間見えた。副町長は、夜、赤色の光がとても綺麗だったのに、今となっては・・・と言葉を濁した。
浪江町の人的被害は死者182名(うち特例死亡33名)、震災関連死は291名であり、家屋被害は全壊644戸(流出586、地震58)、ちなみに震災時の住民台帳人口は2万1434名であった。現在、この地区の線量は0.2μSv/h程度であり、途中通ってきた山間部と比べ明らかに低かった。この地区に自宅を有していた副町長は、住宅街に家が多く並んでいるころ、自宅は遠くにある印象だったが、今は何もなくなったので家が近づいたように見えてしまうと述べた。また、海辺は地盤が70㎝ほど沈下しており、以前のような砂浜がなくなってしまったと述べた。
建屋の爆発で舞い上がった粉塵は、北西に向かう風に乗り山間部へと流れ、放射性物質は海側の請戸地区には降り注がなかったらしい。原発の真北に位置する請戸地区、そして、その北の南相馬の海側南部も含め放射線量は低いようである。むしろ、この請戸から復旧復興を開始することはできないものかと考える余地もありそうである。海辺から海を見遣ると海上保安庁の船舶が見える。原発の保安上の理由で常に海上で監視しているそうである。副町長は、こうして海を見ているとなんだか水平線が盛り上がってくるように見えると述べた。震災の記憶は癒えることはなさそうであった。ここでは、土さえも重要な資源である。放射線量の高い山間部からは山を切り崩して土を持ってくることができないからである。線量の低い請戸地区に残された丘を切り崩し、土木用の土を確保し、その丘の付近には霊園(お墓)を建立することが考えられている。住民全員の墓が請戸地区にあれば、ふるさとを失ってしまう事態は防ぐことができるかもしれない。今後、墓参りで住民が集うきっかけになるからである。
請戸から浪江駅へと向かう。途中、杉並木のおかげで流出を免れたかのように見える白い壁の建物が見えた。鮭の加工工場であった。鮭はいつものように川を遡上してくる。その事実が副町長らを勇気づけているらしい。震災前と変わらない自然が息づいているからである。
浪江駅
浪江駅に到着すると、そこから役場まで徒歩で町の様子を見て回った。地面に打ちつけられて砕けた駅前の巨大な街灯、3月12日付けの新聞の束を残して立ち退いたと見られる店舗、車道に飛び出すように瓦解した木造の建物、1階が完全につぶれてしまった家、ホーム上にひっそりと示される「なみえ」という駅名の看板、傷跡は深かったものの放射線量さえ低下すれば復旧復興は可能に思えた。
実際、浪江町役場に設置されている屋外カウンターの数値は、0.141μSv/hを指しており、福島駅前よりずっと低かった。放射線量については解明されていない点も多い。常磐線より東は放射線量が低いが、その西側は線路よりわずか10メートル離れた地点から数値が高くなる。なぜ、そのような違いがはっきり出るのか、今のところ不明である。現在、空気中の線量は低くなっているが、浪江駅の西側の樋渡地区では高くなってきている。それはホットスポットのような点としての高値ではなく、面としての高値なのである。
浪江町役場
午後4時、役場の防災広報が立ち入りの時間の終了をアナウンスしていた。スクリーニングは午後5時までであることを告げる。副町長は言う。時計は止まったままだ、と。町民のため復旧復興を実現したいが現実は厳しく、情報発信を繰り返しているが広がって行く気配を感じない、という。霞ヶ関方面では、既に風化してしまっているのではないかと心配している。町は社会的風化と戦っている。力になってほしい。町長に国連で事実を読み上げてほしい。伝があれば紹介してほしい。副町長の言葉に浪江町の復旧復興への堅い意思を感じた。忘れないでほしい。もっと自分たちのことを知ってほしい。世界中の人々に復旧復興を応援してほしい。そんな気持ちが伝わってきた。
114号線
浪江町からの帰路は114号線(富岡街道)である。かつて避難経路に使われた道である。この道は原発の北西に向かっており、放射性物質が風で流された方向と一致していた。そのため、避難する住民の被曝量を高めてしまったとされる。いわゆるSPEEDI予測の開示の問題として批判の的になったものである。
津島
114号線を北西に向かうと、徐々に放射線量は高い値を示した。帰還困難地域の手前の検問所では車内で1.07μSv/hという値であった。検問所を通過するには通行証が必要である。自宅や事務所へ荷物を取りに帰る場合や公益目的の視察の場合などに発行される。検問所を過ぎ、つしま活性化センター(スクリーニングを受ける場所)まで、ずっと放射線量は高い値を示した。バス内の値は最高6.3μSv/hまで上昇した。しかし、トンネル内を通過するときは0.05μSv/hまで下がった。放射性物質が木々に付着しているものと思われる。山の除染は難問である。津島ではひとりひとり靴の裏のスクリーニングを受けた。津島の屋外カウンターは0.882μSv/hを示していた。この地域は、民放のテレビ番組の舞台の一部となったDASH村があった場所である。
警戒区域
配布された資料によると、平成23年3月11日、東北地方太平洋沖で地震が発生し、その日午後9時前には、福島第一原発から半径2km以内の住人に避難指示が出されている。翌日12日には半径20km以内に避難指示が拡大され、15日には半径20kmから30km圏内に屋内退避指示が出されている。警戒区域の設定は同年4月22日からであり、半径20km県内が警戒区域に設定された。警戒区域では立ち入りが禁止される。半径20kmの外では、飯舘村や川俣町の一部、浪江町、葛尾村、南相馬の一部が計画的避難区域とされ、その他30km内の大半が緊急時避難準備区域とされた。更に、局地的に放射線量の高い地点(ホットスポット)を、年間20mSvを目安に特定避難勧奨地点とした。
再編
その後、冷温停止状態が宣言されると、平成24年4月以降、準備が整った自治体から順次、避難指示解除準備区域、居住制限区域、帰還困難区域の3区域に再編された。浪江町は平成25年4月に再編され、同年8月8日川俣町の再編により再編が完了した。
ワークショップ
ワークショップのテーマ
翌日、9月7日の午前中は、原子力発電所事故が発生した場合を想定し、弁護士、弁護士会は何ができるか、というテーマでワークショップが開催された。各班7〜8名ずつ5班に分かれ、発表役、チューター役2名(福島弁護士会所属弁護士)とともに事故発生を想定した設問1〜4についてディスカッションし、その成果を各所属会へフィードバックすることを目的とする。
前提事実
前提事実としては、次のとおりである。原発所在県における大地震と津波により水素爆発を伴う原発事故が発生し、その近隣地域に避難指示が出された。弁護士会館所在地は避難指示の対象外であった。空間放射線量は上昇し、交通途絶、ガソリン不足が深刻になっている。これは、福島県弁護士会ないし同会所属の弁護士が実際に経験した事実が基礎となっている。
設問
同事故から2週間までの弁護士会の対応、会館閉鎖や刑事国選への対応。2週間経過から3ヶ月ころまでの法的支援の対応(避難場所は随時変更されていくことが前提)。3ヶ月経過以降の法的支援、情報提供、受任態勢、そして、原発事故における弁護士会及び弁護士の賠償請求の支援、賠償請求以外の支援について、ワークショップが実施された。
傍聴
各班のディスカッションを順番に傍聴したところ、以下の話題に接することができた。
震災から2週間ころまで
震災により弁護人としては保釈中の被告人の居所がわからなくなるのではないかという不安があった(実際には連絡がとれ、ほっとしたそうである)。弁護士会は、既存のメーリングリストのアドレスを集約して会員の安否確認をした。弁護士会内の各種委員会や会議の中止をFAX送信し、理事会は書面決議で行うこととされた。地検が被疑者を処分保留で釈放していたことに対してマスコミはこれを強く批判した。この点、弁護士会としてはむしろ在宅起訴が本筋であることをアピールすべきであったという。職員の身体の安全を確保する必要から弁護士会館を閉鎖した。しかし、この閉鎖については後に苦言を呈されることになる。もっとも、連日、原発の爆発事故が報道されるなか、平時0.04μSv/hの放射線量が、わずか5時間の間(3月15日午後2時から午後7時)に24.08μSv/hまで急上昇する事態に直面していた以上、やむを得ない対応というべきであろう。その後冷温停止へと向かい放射線量が徐々に低下したという事実は、彼らにとっては将来の事実であって、当時、知ることはできなかったものである。福島県庁の放射線量に関するホームページがアクセス障害に陥った。米政府は米国人に対し50マイル圏外への退避を勧告した。会館付近では地震直後から断水となり、水の確保が難しくなる。水洗トイレは使用できなくなる。給水の順番待ちに3時間以上がかかる。停電は震災の翌日には復旧した。ガソリンは数日後にはほとんど入手不可能となった。福島市でのスーパーの再開は22日以降となった。当番でない会員が被疑者国選を受けタクシーで接見し問題提起をした(タクシー代の支給及び電話接見)。弁護士会内ではテレビ会議が役立っていた。FAXは機能していた。3月21日までは、原発事故が地元紙の一面トップであった。15日以降、福島市の放射線量は徐々に低下していた。4月には2.9μSv/hまで下がった。
震災後2週間後
事故から2週間を経過しても特に法律相談はなかった。「なんでも」相談という形で法律問題かどうかにかかわらず弁護士の方から出て行く必要があった。どこへ出て行くかについては役所との連携が有益だった。避難所のキーマンを見つけ、弁護士が同人と行政との橋渡し役をこなすところからスタートする。避難所でアンケートをとり、それを集計して役所に提出するという作業を行った。集計結果は後に相談マニュアルを作成するときに役立った。複数あったマニュアルを手分けしてエクセルに入力し、ひとつに統合する作業を実施した。電話相談については、ひとつの電話に2名体制で相談を受け、ひとりが電話で聞き取っている間、もうひとりがマニュアルを確認し、対応方法を検討した。フリーダイヤルにはしなかった。旅館が避難所の場合、ロビーを選挙して相談会を開催するのは躊躇された。弁護士会は各所の相談内容の報告を受ける窓口となり、集計した結果を会員にフィードバックする役割を担うことができる。法的な相談に限局しない方がよい。
震災から3ヶ月まで
事故から3ヶ月ほどの時期は、賠償請求の方法を伝える必要がある。しかし、相談会を実施できる場所は限られている。弁護士会の企画ではなかなか人は集まらなかった。ただし、想定以上の避難者が集まり、会場が人であふれてしまうというケースもあった。会場で配付予定の資料が足りなくなった。住民に対しては、とにかく証拠を残すということが重要であることをアピールした。レシート・領収証は、とにかく順番に保管しておくことに意義がある。自分で仕分けをしようとすると続かなくなる。欲を言えば、レシートの裏に手書きで何かメモを残しておければよい。原子力損害賠償紛争審査会に現状の問題点を書面にして送付した。弁護士会自体は個別の受任はしない。人員確保に協力する。受任は弁護団がする。請求は専門知識が必要で誰でもできるものでないので、弁護団会議に情報収集のために出席することが考えられる。その出張費を弁護士会から補助が受けられるようになるとよい。大量被害事件への対処法にはノウハウが必要である。体育館に人を集めて、1頁を開いてくださいという風に順番に説明ができればよかった。
救済支援センター
救済支援センターの準備が進められ、弁護団方式とLAC方式が提案され、後者が採用された。弁護団方式は、弁護団が受任し、弁護士会が事務局をするというスキームであった。LAC方式は受任名簿を作成し、弁護士会から推薦を受け、弁護士が名簿に登載されるというものであった。この点、新人弁護士の名簿搭載に不安が呈された。救済支援センターは研修を実施し、情報提供を行う役割を担うことになった。150名余りの会員のうち120名ほどの名簿搭載が実現した。8月ころ県下一斉説明会をしたが、あまり人が集まらなかった。ADRか訴訟かという選択の話題をする予定だった。説明会に人が集まる時期には「旬」というものがある。これを逃すと権利救済・被害救済というテーマにとってはマイナスという結果になってしまう。二度目はないと考える必要がある。
3ヶ月以降
事故から3ヶ月以降について、避難した者としなかった者の利害状況が異なり、ひとつの自治体が一丸となれない状況が生じた。弁護士会として声明を出した方がよいという意見もあったが、強制加入団体として会の看板で活動できることとそうでないことがあるとの意見もあった。被災者の声をまとめて公表することも考えられたが、弁護士会としては公約数的な穏当な意見にとどめ、踏み込んだ提案・意見は有志に委ねるという役割分担という考え方もあった。会が避難の指示の内容により3分割されてしまった自治体の分断という状況を伝えてはならないということではないという意見もあった。弁護士会内に会長声明の起案のため数々のPT(プロジェクトチーム)が立ち上げられたが、時期が来てPTとしては役割を終えるものと継続して残るものがあった。弁護士会としてそもそもどこまで関わるのか、あるいは、もともと弁護士会としてやるべきことなのか、という根本的疑問も出された。弁護士会の存在意義との関係で相談センター自体を会として活動すべきことなのかどうかというところから問題となった。原子力損害賠償紛争審査会の指針と住民との感覚の差を埋める活動は弁護士の役割であり、本来ロビー活動等もできなければならないところのものであるとされた。
生活保護
大規模災害が発生すると義援金が集まることがある。また、原発事故で避難した者に仮払金が支払われる場合がある。これが収入と認定されると生活保護が停止・廃止されるおそれがある。自立支援計画に充てられるのであればよいが、これらを収入に認定して400世帯の半分を生活保護廃止とした自治体がある。そのうち3名について審査請求し取消裁決を得たが、多数の弁護士が支援してたった3名というのは厳しい現実というべきであった。もっとも、その後の再審査で受給できるようになっているとのことである。
顔の見えるワークショップ
実行委員長(高橋金一弁護士)は、顔の見えるワークショップを実現し、ネットワークが広がることを期待したい、とまとめた。
日弁連人権擁護大会プレシンポジウム
福島の紹介
9月7日午後1時30分からシンポジウムが始まった。まず、最初に福島という地域の簡単な紹介がなされた。福島県をおおきく南北に2本の線を引いて等分に3つに分けるとすると、最も海側を浜通り、真ん中に挟まれた地区を中通り、一番西側を会津と呼んでいるとのことであった。事故前の人口は202万人、事故後は194万人。福島県外への避難者は5万3277人(2013.7.30現在)。県内への避難者は9万5316人(2013.7.25)。観光客は、事故前は5500万人であったが、事故後3500万人へと激減した。もっとも、現在は回復傾向にある。
講演
講演は、大阪市立大学大学院の除本理史准教授によるものであった。題目は「原発事故で奪われたものは何か − 住民の被害の回復と地域の再生に向けて」である。おそらく、(不可逆的に)奪われたもの何か、という問いの答えは、「ふるさと」である、という結論のようであった。ふるさとには代替性がない。そういう意味ではかけがえのないもの(固有性のあるもの)である。ひとりひとりにとって、ふるさとには代替性がない(固有である)という属性は、万人にとって共通であるという意味で、普遍的性質も導かれる。この固有性と普遍性を結びつけて考えることにより、地域外の人々にも自身の問題であるという評価をしてもらえるかどうかが賠償と復興を実現するうえでの課題であるという。
自律する自己
環境経済学の社会的費用論における絶対的損失の話題を基礎に論が展開されており、功利主義的な視点のようにも思われたが、むしろ、法哲学上の共同体論( communitarianism )の立場が前提とする「物語的自己( narrative self )」ないし「位置づけられた自己( situated self )」を彷彿させた。
自律する自己は、地域共同体(その他、国、民族、宗教など)という属性を有すると解すべきか。現代の国民国家は古代ギリシアの都市国家風のものではなく、グローバリゼーション(地球化)の時代にあるというべきか。地球公共圏における標準化と差異化の展開にあてはめて考えることができるか、興味深いところである。
乖離
災害発生→生活再建→復旧→復興→防災減災というサイクルがあるとすれば、放射性物質による環境汚染が生じた場合、確かに待ったなしの生活再建と復旧復興との間のタイムラグは大きくなるように思われる。放射性物質の影響が長期に及ぶとすれば、生活再建の場は避難先となる一方、復旧復興は避難元の地区ということになり、両者に乖離が生じる。避難先で自身の生活を再建した自律的避難者は避難元において何を失ったと解すべきなのか。除染やインフラ復旧により帰還を促す政策は、放射線量が低下するまでは戻ることはできないと考える住民とのミスマッチを生じさせるおそれがあろう。帰還を巡る住民の意識は多様なのである。もし、放射線量の低下が何十年というスパンで考えられるものとすれば、帰還の意思を表明するのは、今その意思を表明できる世代ではなく、その次の世代(そして、さらにその次の世代)ということになろう。避難先と避難元を結びつけるネットワークは、その継続性(何十年にも及ぶ持続性)という試練を受けることになる。
パネルディスカッション
パネリストには川内村長の遠藤雄幸氏、浪江町長の馬場有氏、福島県弁護士会の湯座聖史氏が招かれた。パネリストの言葉は、おおよそ以下のとおりである。
馬場町長は、浪江町にはDASH村があった(津島)。東洋一の鮭の遡上する地域であった。原発事故で失われたものは大きい、と述べた。
遠藤村長は、川内村には海はなく、87%が森林である。避難指示区域によって村は3つに分断されてしまったと述べた。
馬場町長は、原発とは緊密に情報を開示する約束があった。10条通報や15条通報と呼ばれるものである。ただ、震災時には全く情報が入らなくなった。平時のとき、テープを落としたという些細なことまで報告されていたこととは、打って変わって全く情報提供がなくなるということは、もともとパフォーマンスためにやっていたのではないかと考えてしまう。津波の被害者の救助を震災翌日に実施する予定でいたところ、避難指示が出されてしまった。助けられる命があったことが悔しいと述べた。
遠藤村長は、震災翌日、隣の富岡町から原発の状態がおかしいので避難させてほしいとの申し出を受け、川内村への移動を始めていたと述べた。その後、川内村と富岡町の住民は郡山のビックパレットへ避難することとなった。
災害関連死としては、66歳以上の高齢者が避難先で死亡する例は多い。
馬場町長は、最も多い人で14回も避難所を移動し、少ない場合でも3〜4回は変わっていると述べた。浪江町の平均的な家族は5人であり、構成は2+2+1で高齢者はひとりになる。昔の隣人がいないまま転々とひとりで避難所を移動することになり、もういやだと言われたという。291名が災害関連死という。
遠藤村長は、高齢者にとっての環境の変化はつらいとし、郡山ビックパレットに移動してから、徘徊や失禁、大声を出すようになって死亡した老人の例があり、災害弱者であると述べた。
浪江町では、震災前から被爆に関する健康管理をしていた。このほど染色体検査も実施した。まもなく結果がでる。国で実施しないものは町で実施するほかない。慰謝料増額などを主張して、町が住民1万人の代理人としてADRの申立ても行った。これに対する反論は、カテゴリー別に分けて手続を進めるのが相当という趣旨であった。
遠藤村長は、チェルノブイリ事故では、事故から5年後ころ被曝量が上昇したという報告例があった。最初は放射線量に気をつけて生活しているが、数年しないうちに気が抜けてしまう。低線量被爆を怖れている。食生活による内部被曝については継続的に注意喚起を続けるしかない。計測して食べるという作業を愚直に繰り返していくしかない。
湯座弁護士は中通り付近の小学校周辺の放射線量をチェックした話題を提供し、外で遊ぶ子供が放射線を出す砂に触れ、その手で食物を食べるおそれがある点を指摘した。これに関し親が外で遊ばせないようにしたためか、男子の体力が低下という新聞報道がなされた。賠償額8万円もらって福島に住みますかという話題にも触れた。
馬場町長は、除染は進んでいない、と述べた。平成25年中には終わらない。見直し案が8月中に出るということだったが、このほど9月10日に出したいと変更された。除染については疑問を感じている。放射性物質の場所を少し移動させただけでは変わらないのではないかと思う。除染ではなく除去でなくてはならない。除染による放射性物質は、3年間、仮置き場に置くことを了承しているが、最近3年ではなく、3年程度という言葉に言い換えられている点が気がかりである。最近、空間線量は再び高い値に戻ってきている印象がある。やはり放射線が出ているのかもしれない。河川付近が高く、森林についても除染をしていかなければならない。
遠藤村長は、除染なくして帰還なし、と述べた。0.23μSv/hの目標に達していないところがある。除染によって出る放射線物質の仮置き場はいっぱいになり私たちにとって迷惑な施設といえる。3年間は我慢してほしい、と言われ我慢しているが、3年経ったら約束どおり運び出してほしい。たとえ1個でも運び出してほしいと思っている。おそらく自然にまかせていても放射線量は低下しない。人的作業が必要と考えている。
馬場町長は、ふるさと喪失を懸念している。広報誌やお知らせを月2回発行している。応急住宅や借り上げ住宅まで端末のフォトビジョンで全家庭に配信する。自治会を創設し、町の外にいても浪江町民であるとしたい。
司法アクセスにつき、馬場町長は、任期付き公務員として弁護士を採用して法テラスもできなかったことを実現しようとしている、と述べた。
遠藤村長は、司法アクセスとしては広野町に法テラスがあり、いわきの弁護士には行政でわからないところなどの情報をもらっている、と述べた。
除本准教授は、住民にとっては、こんなことを法律の専門家の弁護士先生に相談してもよいものかと怖がっているところがある、と述べた。
遠藤村長は、復興に向けて帰還宣言をし、仮設住宅や借り上げ住宅に住み孤立化している方など、戻りたい人には戻ってきてほしいと思っている。買い物や医療サービスは富岡町から得たいと思うし、180°振り返って田村市側にも強力をお願いしたいと思っている。ゴミ、屎尿、道路、雇用の問題など様々あり、直ちに都会のように密度の高いサービスまでは提供できない。
馬場町長は、原因究明をしてほしいと述べた。検証をしていない。津波が原因なのか、地震によって配管が破断したのか、はっきりしないところがある。配管破断なら他の原発にも同様の危険があることになる。情報の信用性が乏しいところでの避難方法は検討しておかなければならないところである。エネルギー政策の転換を望む。原発の輸出や再稼働は疑問である。
会場の海渡弁護士は、地震が原因で最初から壊れていたのか、津波で電源を喪失したのかを検証する必要がある旨述べた。
湯座弁護士は、賠償の枠の拡大が弁護士の仕事であると述べた。この仕事は長期にわたり終期が見えない。我々の行動自体が法理論を作るというつもりで活動している。
遠藤村長は、軸は復興である、と述べた。判断材料は生きがいである。
馬場町長は、どこにいても浪江町民である、と述べた。幸福追求権、生存権、財産権が問題になる。浪江町の土地の価格では、他の地域で土地を手に入れられない。再取得価格が大事である。
除本准教授は、たとえ賠償がなされても避難先でストレスを受けることになり、人権侵害は継続し、被爆して生活する権利の確立が必要である、と述べた。避難元の自治体との関係を維持し続けることで、個々人の生活再建と復興とを架橋することができるという。
同じ日のプレゼン
今回の開催されたシンポジウムと同じ日、ブエノスアイレスのIOCでは、東京へのオリンピック招致のため、日本のプレゼンテーションが行われていた。
安倍首相は、福島第一原発事故の状況はコントロールされており、東京に悪影響は及ぶものではないと保証した。その後、IOC委員による質疑応答では、東京に影響がないとする根拠を求められ、汚染水の影響は一定の範囲内にブロックされている旨述べた。
そして、ついに、めでたく東京での五輪開催が決定された。歓迎すべきことと思う。
是非、世界中のアスリートに来日してほしい。そして、スポーツで復旧復興を願う人々を励ましてほしい。約束が履行されるよう世界が見つめていてほしい。
以 上
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