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不法行為の抑止

弁護士 永 島 賢 也
2013/02/25

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民事裁判の活性化のために 抑止的付加金について

不法行為制度の目的

なぜ、不法行為によって債権が発生するのか。不法行為制度の目的が問題になるが、それは、やはり、被害者の救済、すなわち、損害の填補にあると解される。そして、このように加害者が被害者に発生した損害を填補しなければならないとすれば、普段から注意深く行動をし、あるいは、あらかじめ危険な行為を避ける動機付けを与え、将来の不法行為を抑止することできるであろう。そういう意味で、不法行為に基づく損害賠償制度は、事後的に被害者を救済し、発生してしまった損害を填補して不法行為がなければあったであろう状態を回復させるとともに、あわせて将来の不法行為を抑止するという側面を有する。

フリーライド型・利益追求型

ところで、賠償責任を負わされるということが、不法行為の抑止という機能を果たしてはいないのではないかと指摘される類型がある。いわゆるフリーライド型ないし利益追求型というものである。たとえば、①他人の土地を無断で駐車場として利用する(他人の土地所有権を侵害して使用利益を取得する)、②他人の知的財産権を利用して利益を獲得する、③他人の名誉やプライバシーを侵害して利益を取得するというケースである(窪田充見・不法行為法20頁(有斐閣)参照)。

これらの類型では、賠償責任を覚悟し填補賠償額をコストとして織り込んでしまえば、あえて権利を侵害するという選択の余地が生まれてきてしまうのである。不法行為というものは採算の合うものであってはならないものだとすれば、このような余地は最大限なくしておかなければならないものであろう。

①の類型について言えば、たとえば、遊んでいる他人の土地を駐車場にして収益を上げるという場合、填補賠償の金額よりも大きな収益が予想されるのであれば、いちいち所有者を探索して契約交渉を始めるよりも、端的に駐車場営業を始めてしまった方が経済合理性に合致する。必ず、訴えられるとは限らず、権利者探索とその後の契約交渉のコストも削減できるからである。もともと空き地であったのであるから、差額説的な損害額も低くなると予想される(これは利益吐き出し型の賠償制度を肯定する背景ともなり得る。)

次に②の類型について言えば、たとえば、実施されていない他者の特許権を使用して利益を得る、という場合がある。特許権侵害の場合、もともと所有権等と異なり権利の客体が有体物でないため、現実にどのような被害が発生しているのか評価し難い面を有する。もし、賠償額が過少に算定されるようなことになれば、権利者を探して適法に実施許諾を求めるより、端的に特許権を侵害して事業を進めてしまった方が経済合理性にかなうことになる。そうすると、ただでさえ容易に行われやすい特許侵害行為をさらに誘発し、特許発明の実施を欲する者をして特許権者に実施許諾を求めるよう仕向けることができなくなる。もともと、裁判所の精密な審理を行う能力が高まれば高まるほど、むしろ、特許権者の権利の保護とは逆の方向を向く結果となってしまうというアイロニーも指摘されている。とくに、特許権者が不実施の場合、特許法の損害の推定が機能しないとされている事例が少なくないため、この場合、実施料相当額による賠償に期待がかかることになるが、結局、業界の相場の金額などが参酌されているのが現状のようである。とすると、権利不実施の場合は、たとえ権利侵害をしたとしても、業界標準の実施料を支払えばライセンス契約を締結したと同様の地位を与えることになってしまう。これでは、侵害者は、権利者探知費用や交渉費用をかけることなく、あたかも強制的にライセンス契約を締結したかのような形に持って行けることになる。著作権の対象となる作品の無断利用のケースも同様といえる。

最後に③の類型について言えば、たとえば、名誉やプライバシーを侵害する記事について、事前に本人から掲載承諾が得られることはまずないため、とにかく出版して収益を得てしまった方がビジネスとしては合理的といえる。現在のように名誉毀損に基づく損害額が低いと言われるのであればなおさらである。しかも、必ず訴えが提起されるとは限らず、むしろ、法的手段をとることがかえって出版物の宣伝効果となってしまうことがあるため訴訟等が避けられる傾向も指摘できる。

したがって、このような類型では、経済力をもつ組織が填補賠償を覚悟すれば、権利侵害の自由(?)という選択肢を得てしまうことになる。

権利侵害という選択肢

もともと、権利を有している者は、それを利用する者に対して、「許諾するかどうかの自由」と、許諾するとして「ライセンス料をいくらにするかという自由」を持っているはずである。ところが、上述の類型では、許諾するかどうかという選択は端的に無視され、賠償金額は権利者ではなく裁判所が決めることになってしまう。本来、しかるべき対価は、権原を有する者が決められるはずである。しかしながら、このような類型では、結局、裁判所が決める賠償額に甘んじなければならなくなり、いわば権原の問題が責任の問題に移し替えられてしまうのである。

裁判所が認容するであろう賠償金額が予想可能であれば、わざわざ権利者を捜して交渉をはじめ、高額なライセンス料を突きつけられるよりも、端的に権利侵害を始めてしまった方が経済合理性に合致する場合が出てくるであろう。権利者と交渉を始めれば法外なライセンス料を要求されることがあるかもしれないが、裁判所が相手であれば、あくまで填補賠償を限度とする金額が示されるにとどまるからである。

この点、裁判所が、あくまで填補賠償の範囲内との解釈のうえ不法行為の損害を権利侵害者の受けた利益と等価値と判断し、いわば利益をはき出させるような判決を言い渡すとしても、問題は残される。というのは、必ず訴えられるとは限らないという可能性を取りこぼしてしまうからである。つまり、教室事例として言えば、訴えられる確率が50%であるとすると、侵害者は残りの50%分の利益を保持できる計算になるのである。ということは、この例では2倍の賠償金を付加しなければ計算上合理的ではないことになる。50%の確率で利益は保持できると計算された権利侵害という選択肢を与えてしまうからである。

実際には、填補賠償額が、権利侵害者の受けた利益と同額という判断がなされるかどうかは定かでない。むしろ利益額を圧縮すべく、なるべく多くの費用(コスト)を計上したり、権利侵害から得られた経済効果が部分的なものに止まることなどを主張立証して賠償額を削る訴訟活動が行われ、認容額が少額となる可能性が高いと思われる。上述の精密審理のアイロニーが生まれる場面である。また、権利者を探す費用や交渉コストも経済的にばかにならないが、これらの費用をかけずに済んだことを填補賠償の枠内ですくいあげることは難しいであろう。

填補賠償

填補賠償が、被害者を、もし権利侵害がなかったとしたら、あったであろう状態に回復させるに充分な金額であるとすれば、それは、被害者がそのような侵害行為をする権利を事前に加害者に売っていたとすれば被害者が得られたであろう状態に被害者をするのに充分なだけの金額に比べると、一般に低くなるものと思われる。いわば、填補賠償はこのような取引において成立しうる最低金額を画するものと言える。

例を掲げる。たとえば、交通事故で自動車を破壊された者が、その加害者にその車を同様に壊す権利を事前に売っていたとすれば、その者は填補賠償の金額では売らなかったであろうということである。被害者は、事故前の状態までに回復させる賠償金よりは高い金額でそのような権利を売りたいと思うのが通常ではないか、と考えられる。
とすると、権原を有する者が合意する金額よりも、権利侵害をしてしまってから裁判所によって認定される賠償金額の方が低くなってしまうことになる。填補賠償(full compensation, complete compensation)という賠償概念では、被害者に不利であって不公平なのではないか、という問題が提起されるのである。

不法行為法が、賠償を条件に不法行為を許容する法とみられるとすれば、我々はいささか違和感を持つであろう。契約法が、賠償のために充分な金銭を払えば契約を破ってもかまわないと解釈されるのであれば、同様である。

賠償を条件に権利保持者の同意なしにすべての権利侵害を許容するシステムは、カントの定言命法に違反するという意味で、他人を手段として利用することを許すシステムということになろう(亀本洋・法哲学177頁(成文堂)同旨)。被害者が、填補賠償という、いわば最低金額に甘んじなければならない道徳的根拠はおそらくないであろう。

損害の公平な分担

仮に、不法行為法が、被害者の救済や損害の填補のみを目的としているとすれば、なぜ、加害者に故意過失が認められる場合にだけ、被害者を救済することにしているのか、充分な理由を説明できない。被害者の救済が、被害者自身とはかかわりのない事情、すなわち、加害者の責任の有無によって、左右されることになっているからである(窪田充見・前掲参照)。やはり、不法行為法には、不法行為の抑止という観点が含まれていると解さざるを得ない。にもかかわらず、上述のフリーライド型の権利侵害に対して、不法行為法が抑止力を発揮できないとすれば、奇妙な印象を与える。

それでも、なぜ、不法行為法の前提とする損害は、填補賠償にとどまっているのであろうか。おそらく、被害者が損害賠償制度によって逆に利益に浴することがあってはならない、損害の填補以上の金銭を得て、むしろ他人が不法行為をしてくれたお陰で儲かったというのでは正義に反する、という素朴な発想が横たわっているものと思われる。そして、この発想は頗る首肯できるものである。私にも異論はない。

そうだとすると、加害者が不法行為制度によって利益を保持することも認めてはならないはずである。被害者は損害賠償制度によって利益を得てはならないが、加害者は損害賠償制度によって利益を得てもよい、ということこそ正義に反する発想と考えられるからである。

このように、被害者も、加害者も、どちらも不法行為制度によって利益を得てはならないとすれば、被害者が利益を得てはならないことを貫徹する反面で加害者が利益を保持してしまうことも、加害者が利益を保持してはならないことを貫徹する反面で被害者が利益を得てしまうことも、両方とも極端な発想であって、本来、正義・衡平の観点から調整を図らなければならないものというべきである。これこそ「損害」の「公平」な分担という思想に合致するものと考える。とするば、振れている振り子が揺り戻されなければならない。

損害概念

現在の振り子が、被害者は不法行為制度によって利益を得てはならないというポジションに振れているのであれば、加害者が当該不法行為によって利益を得ている事実が認められる場合、その振り子を揺り戻す必要がある。その際、端的に填補賠償を超える金額を認めるのか、あくまで損害概念を拡張して填補賠償という衣を着せたままにするのかは、問題である。
遊休地を無断利用した例では、もともと利益を生み出していなかった土地であるため、財産状態差額説という観点からは損害を認めることは困難であろう。もっとも、最高裁平成8年4月25日判決(最高裁民事判例集50巻5号1221頁・いわゆる「貝採り」判決)を参考にすれば、土地所有権の侵害による損害が当該不法行為の時に一定の内容のものとして発生しているといえ、その金銭的評価として差額説的な手法が用いられていると解せば、その金銭的評価としては複数の方法があり得るため、加害者が現に当該遊休地を利用して収益を上げたこと自体を当該土地の潜在的価値を評価する方法として採用することが可能になり、填補賠償の枠内でいわば利益の吐き出しを実現させることもできるであろう。とすれば、従来の不法行為制度の解釈で対応できることになる。

しかし、それでも取りこぼしが残る。権利侵害をしても必ずしも100%訴えられるとは限らないからである。上述の教室事例で言えば、50%の確率で訴えられるのであれば填補賠償の2倍の支払額が課されなければ侵害者の違法行為のインセンティブを払拭できない。
特許侵害の事実を隠蔽して製品を開発製造する場合、当該開発資料の保管や担当者の秘密保持義務を厳重にすることによって訴えられるリスクを低下させることはできるであろう。とすると、隠蔽行為が認められる場合、それにより敗訴の確率が減少した分だけ賠償額を増加させなければならないことになる。提訴・敗訴の可能性を下げることにより、その分、権利侵害行為を割に合う選択肢のひとつとして成り立たせてしまっているからである。みずから隠蔽を図りながら、結果として発見されてしまった場でも、隠蔽などしていなかった者と全く同じ立場で賠償責任を果たせばよいというのでは不合理であろう。

また、広く分散的な危険を生じさせる場合であれば、おそらく、その一部しか損害は現実化せず、更に、その一部の被害者しか訴えを提起してこないと想定することは可能である。自動車の設計ミスにより追突時に炎上してしまうとすれば、リコール費用をかけるよりも実際に追突炎上事故が起こった場合にのみ賠償金を支払う方がトータルで安上がりになると計算できるケースもあり得る。この場合、訴えられる(敗訴する)率を計算にいれて経済合理性にかなう行動を選択できる。この点、計算上、人の生命の金銭的価値をもっと高く設定しておくべきだったという反省は、おそらく問題の核心を避けている。
更に、ここで、刑事法に視野を広げてみても同様のことがいえる。つまり、刑事法に任せていたのでは起訴便宜主義という建前があり、必ずしも権利侵害者に制裁が加えられるとは限らないからである。刑法犯認知件数に対する検挙率が低下している場合、一般の権利侵害については私人による法的制裁措置をある程度容認する方向性も考えられる。法的措置は決して実力による自力救済とはいえないからである。

最高裁判所は、懲罰的賠償が認められた外国判決の執行判決を求める訴えにつき、補償的損害賠償及び訴訟費用を超える懲罰的損害賠償部分について、民事訴訟法118条3号の公の秩序に反するとして執行力を否定している(最高裁平成9年7月11日判決・最高裁民事判例集51巻6号2573頁)。しかし、その後、懲罰的な評価が含まれている場合でも、それが発生した不利益を補填する範囲内であれば公の秩序に反するものとはいえないとも述べている(最高裁平成10年4月28日判決・最高裁民事判例集51巻6号2573頁)。つまり、懲罰的であるから公序に反するとは述べられておらず、懲罰的色彩があっても、それが填補賠償の範囲内の金額と認められれば執行力を付与しているのである(東京弁護士会民事訴訟問題等特別委員会編・最新判例にみる民事訴訟の実務342頁(青林書院))。とすると、民事責任は損害の填補であり、制裁は刑事責任であるという棲み分けも、既に揺らいでいるというべきである。そもそも、民事責任と刑事責任の峻別こそが近代法の到達点とする歴史的な認識自体、再検討の余地があると思われる。弁護士であれば、依頼者に対し、民事と刑事の区別を説明した際、納得のいかない表情をされた経験があるはずである。それは一度や二度ではないと思われる。国民の多数がそうは思っていないであろうことを近代法の到達点に達したなどと言えるものでなく、むしろ、多少のオーバーラップこそバランスのとれた考え方として受け入れやすいのではないかと思われる。オーバーラップを肯定したうえ、その程度を問題にする議論をすべきであろう。

繰り返される不法行為

また、割に合う不法行為(違法行為)は繰り返される可能性が高い。利益が手許に残る以上、繰り返しのインセンティブが働くからである。むしろ、司法判断を経ても「この程度で済んだ」と思われることは、なおさら繰り返しの動機付けを高めることになり、更に、模倣する競争者の出現を加速させるであろう。

法律事務所に相談に訪れる依頼者もこの種のアドバイスを期待するようになるかもしれない。すなわち、「場合によっては、いちいち権利侵害を躊躇してしまってはビジネスなどできません。仮に訴えられたとしてもライセンス料程度の金額にすぎませんよ。リスクに挑戦するからこそ企業活動なのです。」と。

権利をもつ者が決定できたはずのライセンス料が、まず権利侵害から始めることによって裁判所が決める填補賠償の金額へと移し替えられるとすれば、遡って、仮に、そのような侵害行為をする権利を事前に売っていたとしたら、いくらが相当であったかと検討してみることも一考である。そもそもライセンスするつもりはなかったというケースもあり得るであろう。
事前の交渉や合意を省略し、まず、権利侵害から始めることによる経済合理性を分析すれば、ネット上での権利侵害・違法行為が繰り返される背景が見えてくるかもしれない。許諾を得ずに著作物をとりあえず利用してしまった方が端的に合理的なのである。これは、デジタルデータの複製・流通の容易性がもたらした功罪といえる。

仮処分命令違反の事例

上述のフリーライド型ないし利益追求型ではないが、やはり違法行為の抑止的機能の不十分性を垣間見せるものも現れている。裁判所の仮処分に違反する事例である。仮処分に沿って行動しても、あるいは、これに反しても、いずれにしても利益を得られるものではないが、どちらかと言えば端的に仮処分を無視した方がコスト的に有利と予想される場合、仮処分に違反するという選択肢が成り立つ。

たとえば、ある組合の集会のため、ホテルの施設の利用が予約されたところ、当該集会に反対する団体による抗議行動が予想されたため、ホテル側が当該予約をキャンセルし、裁判所が施設の利用をさせるよう仮処分命令を発しても、これに従わず、施設利用を拒否し続けるというケースである。

ホテル側は、おそらく施設利用契約を一方的に破棄したことから生じる、ある程度の賠償責任は覚悟していたものと思われる。たとえ、その損害を賠償しなければならなくなったとしても、施設利用を拒否することによって避けられる不利益がそれより大きいのであれば、ホテル側としては頗る合理的な選択ということになる。ホテルの施設の他の利用客、周辺住民、周辺施設とその利用者に対する損害賠償責任等のコストの発生に比べ、端的に施設利用を拒否した場合の賠償責任の方が低廉になる見込みが高ければ、仮処分命令に反することも選択肢として充分成り立つのである。

もし、仮処分命令に違反すれば、財産的損害のほか、財産的損害の3倍の金額の非財産的損害の賠償もさせられてしまう、ということが事前に予測可能であったとすれば、仮処分命令に違反するという選択肢は、はじめから消えていた可能性もある。仮処分に違反しない方がコスト的に有利だからである。

 このような例に鑑みても、法律を制定して予測可能性を確保し、違法行為に出るという選択肢を予め消しておくことは、違法行為の抑止に役立つといえる。

抑止目的の付加金

そこで、日弁連の業革シンポジウムにおいて、民事裁判手続に関する委員会は、不法行為制度が有している違法行為の抑止という目的を補完するため、抑止目的で付加金を課すという制度の導入を提唱したものである。国が、民事訴訟制度を設けているのは、個々の民事訴訟を通じて、権利をもつ者を保護する、というサービスを私人(裁判権に服する者)に提供するためであるところ、その機能不全が疑われる点は払拭されるのが相当と考えられるからである。

 

                             以 上

                                

         

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